アニメ派の方はご承知のとおり、NHKでのファイナルシーズンは、
コミック29巻の途中でいったん終了しました。
完結は冬まで待たなくてはなりませんが、
もう一人の自分が「冬まで生きてる保証はないぞ」と脅すため、
仕方なく29巻から34巻まで纏め買いし、家族から白い目で見られながらも、
結末まで辿り着きました。
これで安心して、本当に寿命が尽きたらどうしようと怯える自分もいます。
認めます。心配性です。
アニメで結末を見届けようと思っている人もいると思いますので、
ネタバレには気を付けて書きます。
これまでも、アニメやマンガにハマったことはありますが、
進撃の巨人は別格です。
マンガは、文学や映画に比べると軽く見られがちですが、
それらとも十分肩を並べる深みを感じさせます。
この作品が持つ人間に対する洞察の深さからきているんじゃないでしょうか。
中心人物のエレン、ミカサ、アルミンにとどまらず、
モブキャラの心情までもが丁寧に描かれていて、
一人ひとりが自分の心と真摯に向き合い、葛藤する姿が、
いくつもの物語として多層的に紡がれています。
それぞれの登場人物が、自分では目を背けたくなるような心の闇、
偽善や悪意と、とことん向き合わされる状況は見ていて辛くなります。
大切な人を守るためなら、罪もない多くの人を犠牲しても良いのか?
そうしないことは、所詮、偽善や弱さなんじゃないのか?
自問自答を繰り返し、自分なりの答えに辿り着くまでの、
孤独で辛い旅路が容赦なく見る者に突きつけられます。
「調査兵団団長に求められる資質は、理解することをあきらめない姿勢にある」
というハンジの言葉のとおり、
自分自身への探求をあきらめない人々の群像劇でした。
どのエピソードからも作品の思いが伝わってくるんですが、
とりわけ心を動かされたのは、”エルヴィンの物語”です。
誰からも慕われ、理想のリーダーとして尊敬を一身に集めてきたエルヴィンですが、
実際は、自分の夢のためだけに大勢の仲間を死地に飛び込ませてきました。
誰もそうとは思っていなくても、当のエリヴィン自身だけはそれに気づいていて、
周囲の尊敬と自身のエゴの間で葛藤しています。
仲間の屍の山を踏み台にし、もう少しで夢に手が届きそうになった寸前で、
自分のエゴを貫くか、大儀に殉じるかの決断を迫られます(実際に選択するはリヴァイですが。)
こんな残酷な心の葛藤は、文学作品の中でもそう簡単にはお目にかかれませんが、
そこでの選択こそが、その人間の価値を英雄と悪魔に分かつ紙一重の差のような気がします。
エルヴィンとは対極とさえ思える”ケニー・アッカーマンの物語”からも同じ文脈が感じられます。
ケニーは「夢、金、女、権力、神、人は何かに酔っぱらってないと狂っちまう」と言っていますが、
人は満たされない隙間を埋めるために、代償となる何か追い求めているんじゃないのか?
じゃあ自分が本当に求めているものは何なんだろう?っていう自分自身への疑念は、
誰の心の奥底にも澱みのように溜まっているんじゃないでしょうか。
数え上がればキリがないんですが、唯一異質なのがエレンなんです。
他の皆は、自分と向き合い、葛藤しながらも答えを見つけることができるんですが、
彼だけは答えが決まっている物語を生きなければなりません。
本作は、葛藤する”一人ひとりの人間の物語”を描きながらも、
それができない孤独な”エレンの物語”との螺旋構造になっています。
エレンだけは答えが決まっている物語を”進撃”し続けなければなりません。
仲間を”自由”にし、自分自身を運命の呪縛から”自由”にするため、
あらかじめ決まっている残酷な未来を、
そうとわかっていても”進撃”し続けなければならない”エレンの物語”は、
読む者の心を強く揺さぶります。
作中何度か耳にする「この世界は残酷なんだ」という言葉は、
戦争、パンデミック、人権抑圧、ヘイト、虐待、を生きる私たちにも言えることですね。
そんな”残酷”な世界と、どう向き合っていったら良いのか、
読む者に答えを委ねるかのように物語は幕を閉じました。
そして、”エレンとミカサの物語”は、美しく穏やかな余韻とともに消えていきますが、
「理解することをあきらめるな」という言葉だけは、
いつまでも残響のように鳴りやみません。